縄文時代の「理想の女性」は安定感が重要?!
古代日本…たとえば縄文時代に(沖縄を除く)日本中でさかんに作られた土偶には、理想の女性像を摸して作られたのであろうと思われる点が多々、見うけられます。胸は小さめですが、どっしりとした足腰が強調されているのが特徴です。縄文人の考えた理想の女性とは安定感があって、ドーンと構えているタイプだったのではないでしょうか。
縄文時代は狩猟社会でした。腕力・体力のある男性中心の社会になりがちですが、パワフルな男性を称える像より、肝っ玉かあさんのような体格の女性像が日本では多数作られたことは、興味深いと思います。
日本が狩猟社会から農耕社会になっていった弥生時代に作られた女性の埴輪は、女性の土偶にくらべれば華奢にはなっていますが、それでも男女でデザインの差は比較的小さいです。古代日本は男性のチカラが強い社会ではあったのでしょうが、女性の存在や貢献は他国以上に重視されていたのでは…と思われるのです。
7世紀のモテ女性「珠名」は、キラキラ女子?
7世紀後半~8世紀後半にかけて編集された、我が国最古の和歌集『万葉集』には、興味深い理想の女性像が登場しています。安房国(あわのくに、現在の千葉)の男性たちからこぞって「妻にしたい!」と恋いこがれられた、珠名(たまな)という美女です。
彼女は胸が豊かで腰が細く「ハチのように」くびれており、笑顔もステキだったそうです。珠名に微笑まれた男性は、既婚者なのにおもわず自分の家の鍵を与えてしまったり、「妻と別れたから私と結婚してくれ!」と言ったりするほどでした。彼女自身も恋愛には積極的で、家の外から名を呼ばれると「彼は声が素敵だな」と思っただけでも、門から出て行ってその男性と会ったそうです。
この頃、男女がデートするのは真夜中が中心で、気持ちが高まれば、野外でセックスしてしまうことも多々ありました。ここから分かるのは、美人とか、スタイルがよいという条件だけでなく、珠名のように活動的な女性に男性は本気になったということです。活動的ということは、自分に自信があることでもありますね。 珠名の魅力を讃える言葉に「きらきらし」という単語が使われています。そのまま「キラキラした」という意味で、身分の高低にかかわらず、古代の男性に重視された女性の魅力とはどういうものかを伝えていると思います。
「キラキラ女子」をベストとする日本古来の傾向も、中国大陸から「独身の女性はとくに家の中にいて、兄や父親の監視下におかれているのが望ましい」とする儒教的な倫理観が強くなっていく中で、変化が見られるようになります。儒教的な女性像をよしとする傾向が強くなる平安時代以降の女性美の条件といえば、白い肌、長い髪…などなどですが、とくに女性とはインドアな存在ということに常識が変化したことのあらわれです。
平安時代は情緒的な文化系タイプが人気
平安時代中期以降…たとえば『枕草子』を書いた清少納言や、『源氏物語』の作者・紫式部といった貴族の女性たちは、普段も基本的にはインドアで、特別な儀式のときなどハレの日には何枚も上着を重ね着し、通称「十二単」で自分の身を飾りました。衣服や長い髪がたいへん重たいため、彼女たちが『万葉集』の時代の女性たちほどアクティブではいられないわけです。
男性が求める彼女たちのパーソナリティも、アクティブで「きらきらし」な女性よりも、しっとりとして情緒的な文化系タイプ…「もののあはれ」を知る女性こそがベストとなります。感動したらおもわず涙が出たりするほど美意識や感受性が強く、恋をすると彼の訪れをじっと待ち続けるような芯の強さのある女性のことですが、この頃の上流社会の男性は、女性(とその実家)の経済力に頼るという習慣が強いのです。
ですから、最初に紹介した土偶に象徴されるような「安定感があって、ドーンと構えているタイプ」こそが、本質的に男性が結婚したい女性の像であることは変わっていないのでは…とも思われます。そもそも古代日本には「妹(いも)の力」と呼ばれる女性信仰があったとされますね。妹とは身近な女性のことで、妻をはじめとする女性に想ってもらえることにはパワーがあり、男性がそれでピンチを切り抜けることができる…とする思考です。
たとえば平安中期の朝廷の権力者・藤原道長の傍には、つねに最愛の妻・源倫子(みなもとのりんし)がいました。何もかもが満たされた自分の人生を、欠けたところなど一切ない満月にたとえたのが道長です。彼の日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)』には、宮廷の行事などにも源倫子を堂々と同伴したという記述が散見されます。倫子とは道長がいつも傍に置いておきたい、(まさに「妹の力」に満ちた)頼れる女性であり、同時にたくさんの子どもたちを生んでくれた存在でもありました。結婚を通じて家と家が結びつくわけですから、妻や子どもなしに藤原道長が満月にたとえた栄華はなかったでしょうね。
乱世以降、さらに理想の配偶者は変化していく…
理想の配偶者像にさらなる変化が起きていくのは、乱世ともいわれる中世日本以降のことだと思います。中世以前でも帝には墓が作られ、残されるのですが、帝の妻で、皇太子を生んだ「国母(こくも)」とよばれる女性たちですらお墓の場所がハッキリしないことが多々あります。たとえば藤原道長の娘で、一条天皇の中宮になった彰子(しょうし)の墓も、今やどこにあるかすらわかりません。当時の仏教ではお墓を重視しなかったのと、女性は帝と結婚後ですら生家に属するという常識があったからですが、女性も嫁いだ家の一員であり、現代にも通じる「家」という感覚が生まれていったのは中世以降のことでしょう。こうして男性から求められる妻の像も変化していったのでした。
作家・歴史エッセイスト。古今東西の恋愛史や芸術・文化全般などについての執筆活動を続けている。
最近の出版物としては、原案・監修を務める『ラ・マキユーズ ヴェルサイユの化粧師』(KADOKAWA)のコミック第1巻が発売中。『 本当は怖い世界史 』シリーズ最新刊の 『愛と欲望の世界史』(三笠書房)も好評発売中。
堀江宏樹さんTwitter⇒https://twitter.com/horiehiroki
撮影:竹内摩耶